3.11同じ被災者として想うこと

東日本大震災は11日、発生から5年を迎え、様々な場所で慰霊行事、鎮魂の祈り、そして各界、著名人は、あの大震災を忘れぬよう各地方にて呼びかけやイベントを行いました。


いま、なお避難されている被災者は17万4000人といわれており、死者1万5894人、行方不明者2561人されています。

実は私は、東日本大震災の被災者ではありませんが、1995年に起きた阪神・淡路大震災の被災者なのです。


東日本大震災とは比較にならない死者、行方不明者ではありますが、21年の時を経て、まだあの時代の歪みは脳裏に強烈にこびりついて離れませんので、今回の東日本大震災にて巻き起こった、あの大津波を経験され、人間が木っ端みじんに自然の驚異に飲み込まれていく様を目撃された方や、死別されたご遺族のことを想うと他人事とは思えません。


阪神大震災では6434人が、お亡くなりになられ、3人が行方不明、私が住んでいたマンションの下の階の方は、お布団で眠ったままのご遺体で自衛隊の方に発見されるというお話もお聞きしました。


その時の記憶を呼び起こし、大東市の皆様の防犯、防災対策になればと、記事を書かせていただきました。


大東市においても、1972年、大雨による洪水で市内を流れる寝屋川が氾濫し、同市内の低湿地帯の居住世帯が床上浸水の被害を受けました。

このような被害を2度と起こさないために、防災対策のチェックなどを怠ってはなりませんね。


以下は、私が経験した阪神・淡路大震災でのエピソードです。


●阪神大震災フラッシュバック


午前5時33分強い揺れを感じ、慌てて目を覚ます。

私は阪神大震災の被災者であったため、少しの揺れにも敏感になるし内心穏やかでなくなる。


自宅にいなかったため、取り急ぎ母に連絡し、なんとか無事を確認しホッと胸を撫で下ろす。

何の悪い冗談か知らないが阪神大震災が起きた時間が40分前後だったはず。
猫の様子を見に自宅に戻り安否を確認するが、18年前の阪神大震災の悪夢が頭をよぎり、早朝から人との約束があったため、睡眠不足は大敵だったのだが、なかなか眠りにつくことができない。

テレビやネットの情報に目を配る。


21年前、当時私は母と妹と神戸市東灘区の石屋川車庫前周辺に住んでいた。
あの時の恐怖は今でも鮮明に覚えている。
いきなり大きな縦揺れの振動が始まり、全員飛び起きるが、なにせ縦に揺れるため何もできない。


まるで自分たちが小さな箱に入れられて大きな巨人の手でシャッフルされているかのような感覚だった。
家の中の様子はというと、電気は付かないし、大きな家具は倒れめちゃくちゃに。

一時、振動が止んだ隙に押し入れに潜むが、「ゴオオオオオ」という今まで聞いたことのない不気味な自然の地鳴り(あの地鳴りは今でも忘れられない)というものを初めて聞いた私は危険を察知し、母に「家に居たら危険かも」と言うと母も同調し家から脱出することを試みるが、なんと!あれほど強い地震であると、窓や玄関の鍵が振動のせいで歪んでしまっているせいで開かないのである!


自然の力の前では、人間はただ無力なだけであることを思い知らされる。


奥の部屋の窓から見えるのは、裏手にあるお寺さんが炎に包まれている光景。
もたもたしていると、こちらまですぐに迫ってくる。
そうするとお次はガスが漏れて匂いが充満しつつあった。
家族全員、死を覚悟したが火事場のクソ力というは本当にこういった有事の際に発揮されるのだとつくづく感じた。


母が思い切り体当たりしたり、蹴飛ばし続けてやっと扉が開いたのである。
内心「良かった!脱出できる!」と思ったのも束の間。
扉を開けた目の前に広がる光景は地獄絵図そのものだった。
近所の家などが倒壊しつくしていた。

戦争など経験したことのない年代だが、まるで戦時中のような光景を目にした。
逃げようとする際に、隣に住む方の「助けてー!」という叫びを聞き、私は一瞬戸惑うが母に

「あんたな、こういう時は1分1秒が命取りになるんやで!」

と叱咤され、心の中で隣の方の無事をお祈りするほかなかった。

逃げるにしても、階段からエレベーターからすべてが崩れ去っており、逃げる術もない状態であったが、電柱にかかっている電線を掴みながら、高い塀を綱渡りのように歩くという母がお手本を示していたが、いざというとき、妹は血の気が引いた顔でガクガクと震え上がり、1歩も前に前進できない。


私は妹に

「ここで死ぬんか!勇気出して!お姉ちゃんやお母さんが付いてる!大丈夫やから!早く来て!」

と促し、妹の様子を見守りながら、やっとのことで全員が駅前のまだ被害の少ない場所に辿り着いたが、石屋川車庫前ということもあり、待機している電車が今度は私たちの目の前で斜め状態に傾いていた。

危険を察知した母が

「走れーーーー!」

と大声を上げ、母が走っていく方向に妹と懸命に走り続け、着の身着のまま逃げてきたため靴を履いておらず、偶然マンションから出てきた住人に
「靴を履いていないので、何でもいいので靴をくださーーい!」

と叫び、靴を投げていただき、それを履いて避難場所に無事辿り着くことができた。


しかし家は全焼。

卒業アルバムから思い出の品、母が私が成人した際にと大切に残しておいてくれた着物、呉服、宝石の数々がすべて焼き尽くされた。

後の情報で下に住んでいた方は布団で寝たまんまの状態で遺体となって発見され、住んでいたマンションで奇跡的に生き残ったのは、なんと!私たち家族と残り1組だけであった。

これは本当に私たち家族がツイているとしか思えない出来事だった。
思い出となる物はすべて灰と化したが、家族全員の命が助かったということは奇跡というほかない。

経験者から対策として皆様に伝えたいことは、大地震が起きた際には、絶対に「欲」を出さないこと。
逃げる際に持ち出す物に、あれやこれやと「欲」を出している一瞬のうちに命の危険に晒されてしまう。
逃げる際は最低限の物、お金や携帯だけで十分。


それ以外の物を持って出ようとすることは命取りになるだけである。
地震大国日本に生まれたかぎり、どこに居ても今後も不安は続くであろう。
一番お伝えしたいのは、自然の力をなめてはいけない、ということですね。


東日本大震災においてお亡くなりになられた方々のご冥福を心よりお祈りし、未だ立ち直れない被災者の方々の自立、地場産業の復活、若者の人口増加、復興を心よりお祈り申し上げます。

なかや良子(りょうこ)の輝け大東市!

人想い、街想い、母子家庭に生まれたからこそ弱者の気持ちがわかります。 恵まれないお年寄りや、ご家庭の視点に立ちより良い、いたわりの街づくり大東市へ。