このコラムを読んで今の生活に満足し、恵まれた環境の中、深く物事を考えず、偽善的な平和、人権を唱えている人達が、いざという生死の狭間に揺れ動くとき、過酷さに耐えきれず、真っ先に死にゆく運命であると考えます。
今年2月10日の毎日新聞に社会活動家の湯浅誠さんという方が、
しかし貧困は必ず明らかに目に見えるものだ。
日本の産経以外の全国紙は、「『乞食』は差別語ですから使わないでください」と震え上がって筆者に注意するだけで、イタリア人のように、乞食もまた彼らなりに家族を食べさせるため、金や食べ物を得る努力をしている健気な労働者だ、というふうに解釈しない。
多くの土地で、乞食の子供達は独特のサインをもっている。
貧しい子供達は食べていないから、痩せている。
これを医学的に「マラスムス」と言い、本当の欠食児童である。
彼らは家でも食事をもらえないことが多い。
しかしそれを洗わず畳まず繕わず、着替えたい気分になったときには、土間のあちこちに牛の糞のように丸めて脱ぎ捨ててあるのを、拾って着ていた。
昔の日本にも、裸足は一種の貧乏の証拠と思われていた時代があった。
しかし現代でも、ビニール草履さえ履けない子供は、アフリカなどではよく見かける。
医療施設がめったになく、無料の救急車など聞いたこともなく、当然のことながら国民健康保険も生活保護もなく、親たちには仕事がないから現金もなく、病気になったら死ぬと覚悟している。
公共バス路線もないと、自分の住む村か町に以外に病院があっても、たどりつけないのである。
大学進学を諦めることが目に見えない貧困のひとつの表れだ、などと言われると、彼らは理解しがたいだろう。
携帯を持つことで、子供たちの世界は急に広がったのだろうが、そういうコミュニケーションはしょせんバーチャルなもの。
そこに自分の写真や、時にはヌードまで載せて売春の客を探し、手にした金で友達が持っているTシャツを買う、あるいはタレントを追いかけたり贈り物をしたりする。
そういう薄っぺらな満足のために子供たちが売春するという国は日本以外にはありません。
アメリカには国家としてのアイデンティティがある。それは「自由」です。一面ではアメリカン・ドリームというけれど、一方ではものすごい格差社会でもある。
それがアメリカです。フランスの場合には、革命で掲げた自由、平等、博愛がアイデンティティとして今もあり、公の施設ではプレートにして掲げている。
それは衝動的な感情にすぎないが、それを増幅し、媒介しているのが携帯、あるいはパソコンです。テレビでは、温泉、グルメ、お笑いばかり。これは好ましいことではない。
なかや良子(りょうこ)の輝け大東市!
人想い、街想い、母子家庭に生まれたからこそ弱者の気持ちがわかります。 恵まれないお年寄りや、ご家庭の視点に立ちより良い、いたわりの街づくり大東市へ。
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